当寺は推古天皇の時代、聖徳太子が物部大臣守屋を
討たんとして、鞍作鳥(鳥仏師)に命じ、本尊大日如来及び
諸尊を刻ましめて戦勝をご祈願されたところ、忽ち大軍を
征破することができたので、七堂伽藍を建立して福寺
(普救寺)と名付けられたのに始まります。
その後幾度か盛衰の変遷があり、記録等は散逸して、
多くを知ることができません。
縁起(慈雲尊者真筆)によれば、現在の堂宇は
中興開山眞源阿闍梨が帰省の折、当寺の荒廃を見て、
復興の悲願を発願され、二十数年の勧進努力の結果、
宝暦二年(一七五ニ)三月、再建されたものであります。
明治八年廃仏毀釈により、末寺と統合して現在に
至っております。
中興開山眞源阿闍梨(一六八九〜一七五八)は
北区山田町中の出身で、高野山成蓮院にも住し、
左学頭にまで昇補された高僧です。